じつは観たことがないだなんて口が裂けても言えないのでこっそりヒッチコックを初見していこう週間、2本目は『めまい』です。はい、こちら前回の『サイコ(1960)』以上に100%初見です。逆にすごいと思うんです。
例によってネタバレ気にせず書いていきますのでご注意ください。
いくらなんでも「なんとなくは知ってるんですけどね〜」ぐらいは言いたい超有名タイトルですが、これが本当に、国家レベルの陰謀に巻き込まれたのではと思うほどには1ミリも知らなくて。見たことのあるシーンがひとつも出てこなかったですね。
そんなわけで幸運にも完全初見の『めまい』。いや〜、こういうやつか! こういう白昼夢みたいな映画大好きです。普通にドラマ映画として始まっておきながらカオスに終わる、『マルホランド・ドライブ(2001)』とかそういうタイプのやつ。真っ当だったはずの主人公が精神崩壊していくタイプのやつ。
一体何がどうなってるの??と半信半疑振り回されていく感じもたいへん好物でした。特に美術館での背筋ゾゾッな「花束」「髪型」気付き2連発、うわ〜気持ち悪い〜楽しい〜。最近だと台湾映画の『1秒先の彼女(2020)』にあった、「この(私が知らない、私の)写真は何ぞや?」と調べていく過程なんかも思い出しましたね。
後半のヒロイン「ジュディ」のほうも、野暮ったさ含めすごく好きで。「うげ……」みたいな表情が絶妙だし、眉のラインと緑のスカートはスカーレット・オハラみたいだな、なんて思ったり。マデリンに似てるとはあまり思わなかったので、本当に同じキム・ノヴァクさんだと知って驚きました。
後世へ与えた影響というところでは『サイコ』よりも分かりやすかった気がします。「抱き合って回る(その背景に……)」とか「緑色の光」とか、こういうの撮ってみたい!と思わせる映像的魅力が山盛り。めまいショットことドリーズームは想像していたよりチープに感じてしまいましたけども(エポックメイキングの宿命)。
ドリーズームといえば
終盤で印象的にドリーズームが使われる大林宣彦監督版の『時をかける少女(1983)』は「大林宣彦的『めまい』」であると言われています。いつ頃から言われ始めたのか正確なところは分かりませんが、2012年に大林監督がライムスター宇多丸さんのラジオ番組に出演した際、「著書などに明言されていないのでずばりお伺いしますが『時かけ』は『めまい』ですよね?」な旨の問い掛けをした宇多丸さんに「いかにも!」な回答を監督が返している、このあたりから広まっていったのかな?と想像します。
(該当の回は書き起こしがこちらにて書籍化されているはずですが、わたしは未所持なためゴニョッとしたラジオ音源で聴いたのみです)またこのラジオ出演を経て、例えば監督逝去後に出た『大林宣彦、全自作を語る』では『時かけ』に関する最新インタビューで宇多丸さんの名前と共に『めまい』の話が出てきたりもする(p176)。まあとにかく、ここ一年半くらい熱烈な大林ファンをやってきたわたし的には、『めまい』を観たことがなくても『時かけ』=『めまい』の紐付けだけはしっかりされていたわけです。ということで、久しぶりに大林版『時かけ』を観ました。
本当に『時かけ』は『めまい』なのか?
まずはこの点から。『めまい』を観た時点では正直あんまりピンと来なかったんですけども、間髪入れず『時かけ』を観てみると確かに「ああ!」という要素が多々ありました。
物語の構造的な共通点については宇多丸さんの言葉を借りるなら「『現実には存在しないかもしれない、理想化された恋愛の記憶に囚われてしまった人間』の(中略)哀しく病んだ物語(『大林宣彦、全自作を語る』p186宇多丸さんの寄稿より)」ということで、なるほどなるほど、確かに。「『めまい』のミッジ=『時かけ』の尾美としのり」説についても前述のラジオで「その通り!」と明言されてます。
それ以外では、なんといっても「くるくる落ちる人」ですよね。『時かけ』のタイムリープ時には、卒アルの切り抜きみたいな原田知世さんがくるくるくるくる回転して落ちていく。対する『めまい』でも、冒頭で警官が墜落死するシーン、そしてマデリンが墜落死するシーン、いずれもまさに同じ「くるくる落ち」のチープな演出が使われています。
もうひとつ、これは始まって早々に「!!」となったのですけど、『時かけ』って高校の制服が灰色の学ランとブレザーなんですよ。なんか珍しい色だなあとは初見の頃から思っていて。でも『めまい』だと思って見ると、うわ、あれじゃん「グレーのスーツ」じゃん。意図的じゃなかったら怖いぐらいの、ゾゾッ。
両方の作品の理解を含めていけば、もっと他にもリンクする部分が出てくるんでしょうね。
『時かけ』との劇的再会
ここから先は『めまい』は関係ない話。わたしが大林版『時かけ』を初めて観たのは去年の4月のこと。監督の訃報を受けて『HOUSE/ハウス(1977)』から観始めて、2本目が早速『時かけ』でした。その頃は大林映画に対する耐性なんて全然なくて。『HOUSE』くらいぶっ飛んでたら逆にいいけど、中途半端にいい映画っぽい『時かけ』はあまり刺さりませんでした。
でもどうやら世間的には『時かけ』と原田知世さんに人生狂わされたような人が山のようにいるらしいじゃないですか(宇多丸さんもその一人)。ちょっとよくわかんないな〜。あたしゃ『さびしんぼう(1985)』のほうが断然好きだな〜。なんて思ってたわけです、ずっと。
しかし今回初見ぶりに観てみましたら、その感想がひっくり返されたんですよね。初見の100倍よかった、と言っても過言じゃないくらい、よかった。え、待って、最初から最後までひたすら「いい」んだけど、むしろ初見はこれのどこにピンと来なかったわけ……?? 自分で自分が解せないままテレビにかじり付いてしまいました。
これは、まあ理由は推測できます。「大林映画に慣れた」んです。大林映画的演出、大林映画的語り口にすっかり馴染んだ。いわゆる「フィロソフィー」も重々承知している。チープな視覚効果にいちいち惑わされない。「土曜日の、実験室!」連呼で泣けて仕方ない。まだ戦争には間に合いますか。
さらに、初見時には野暮ったいと思っていた原田知世さんの髪型なぞも今となっては完全に慣れてしまい、むしろ「可愛い」以外の感想が出てこなくなっている。大林組キャストにも詳しくなっている。若かりし根岸季衣さんや、入江たか子さんと入江若葉さんの競演、それだけで美味しくいただける。そりゃ、ピンとしか来ないわけです。
それにしても、大林映画でここまで初見と受け取り方が変わった作品は初めてだったのでかなり驚いています。比較的わかりやすくて人気の高い『時かけ』ですら、大林映画の語り口に耐性がない状態で観るとこんなにも「本質が見えない」かたちでの映画体験に留まってしまうのかと。やっぱりこれは、あんまり一発目におすすめしたい大林作品ではないな。
最後にひとつ、くはーーーと参ってしまった大林語録を。脳科学者・茂木健一郎さんからの質問と、それに対する回答。
(茂木)大林監督の作品は、深く美しいファンタジー性に満ちています。それを生み出す秘密を教えてください。
(大林)美しいものは客観的には存在しないんです。それはいつも主観でしかない。(中略)僕の映画を美しいと思ってくださるのは、僕が美しく作ったのではなく、茂木さんが美しく見てくださったからです。
(『大林宣彦、全自作を語る』p192)
くはーーー。確かに、全く謙遜しないことを言うならば、久方ぶりに観た『時かけ』が初見の100倍よかったのは作品が変わったわけではなくてわたしの見方が変わったから。ううむ……、映画っておもしろい……。
以上、『めまい』はどこへやら、結局また大林映画の話でした。ヒッチコック履修期間はまだまだ続きます。
(2021年126本目/BSプレミアム)
(2021年127本目/U-NEXT)