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映画「太陽の塔(2018)」感想|くらくらしちゃう脳内麻薬分泌系ドキュメンタリー

ドキュメンタリー映画太陽の塔を観ました。そのものずばり岡本太郎の代表作「太陽の塔」について扱った作品ですが、大阪万博当時の回想のみならず2010年代の原発問題に至るまでかなり広く枝を伸ばしていく内容となっています。


映画「太陽の塔」ポスター
映画「太陽の塔」ポスター


わたしは生まれも育ちも東京の隅っこなので「太陽の塔」が身近にあったわけではありませんが、旅行で近くまで行ったことは何度もありますし、2018年に大阪・あべのハルカス美術館で開催されていた展覧会「太陽の塔」にもぶらりと行きましたし(本作とも連動していたみたいですね。当時ポスターを見た記憶があります)、浦沢直樹20世紀少年』世代(?)でもあるのでなんにしろ「太陽の塔」の異質な魅力には常に触れていたと思います。


とはいえ1970年大阪万博を知る世代ではありませんし(親からは行った話を聞かされていた世代)、岡本太郎に特別興味があるわけでもないのでその「太陽の塔」という存在だけを知っている、その程度の距離感でした。万博開催当時は塔の周りが囲まれていたことも展覧会で初めて知ったぐらいですしね。


で、面白いのがこのドキュメンタリー映画、わたしの認識のさらに数千年先みたいなところからスタートするんです。広大な荒野の真ん中にぽつんと佇む太陽の塔。何の「背景」もない、ただそれだけが取り残された謎の巨大建造物。これがすごくSF的で、あれっ思ってたのと違うドキュメンタリーだ、とかなり掴まれました。

公式サイトのプロダクションノートによると、まさにここは悩み抜いた末に生まれた部分だったようです。

当初考えていたものは、やはり「普通」なもので、建設当時を振り返り、改装工事に密着するようなイメージであった。しかし、太陽の塔に関する番組、書籍、情報は溢れ、検索すれば様々な非常に詳しい情報が瞬時に出て来るこの現代で、1970年の通称・大阪万博当時の制作過程を振り返っても、どこかで見たこと、聞いたことがあるものにしかならない。(中略)さていったい何をドキュメントすればいいのか。映画『太陽の塔』公式サイト

高度経済成長期の1970年、「人類の進歩と調和」を掲げた大阪万博のランドマークとして岡本太郎が制作した太陽の塔。しかし本作によれば、この珍妙な塔は明らかにそのテーマと相反する主張を内包したものだったといいます。

心躍る未来的なパビリオンの数々は万博閉幕後解体され、どう見ても異質な太陽の塔だけがなぜか残りました。現在の「記念公園」では、謎のオーラを放つ塔の下で家族連れがのどかなピクニックをしています。客観的に見れば異様な光景ですが、いま2020年代では「かつて大阪万博のランドマークであった」という「文脈・背景」があるため受け入れることが可能です。

ではもし今後、近い将来なのか遠い未来なのか、戦争なり災害なり何らかの理由でその「文脈・背景」すらなくなり太陽の塔だけがぽつねんと遺されたとしたら。この奇妙なアート的建造物そのものだけを目にした人はどんな受容をするだろうか? そんな非常にスケールの大きい語り口の作品が、本作でした。『2001年宇宙の旅(1968)』のスターゲートを思わせるラストに飲み込まれながら、そうかモノリスか、という感じでしたね。

ただ、こんな書き方をしておきながらなんですが別にそこまで抽象的な、小難しいアート的な作品というわけでもなく、構成的にはインタビューのザッピングから成るドキュメンタリーらしいドキュメンタリーです。視点・論点がさまざまに飛躍していくため頭はくらくらしますし、全ての映像がしっかりカラーグレーディングされていることによる映像作品の感も強いですけど、そのぶんこの上なく知的好奇心を刺激されました。しいて言えば朝10時台に観る映画じゃなかったなとは思いました(朝10時台に観たんです)(疲れた)。

朝10時台に観た話 〜こじつけの愉しみ〜

本作はシネマ・チュプキ・タバタのスタッフ選出アンコール上映で本日9/12までかかっておりまして、鑑賞日わたしはチュプキに朝からこもって4本ハシゴをしたんですね。『太陽の塔』『ニーゼと光のアトリエ』『行き止まりの世界に生まれて』『プリズン・サークル』というラインナップでした。今ようやく4本分の感想が書き終わりました。『シャン・チー』の感想とか完全に後回しにしちゃったよ(4日前に観て、まだ書いてない)。

さておき、今回のラインナップはテーマ括りではないはずなのですけど結構つながりがはっきりとありまして。『ニーゼ』以降の3本は全てセラピー的作品でしたから、少しずつ重なっていくんです。その点『太陽の塔』はちょっとはぐれ者というか、アートということでは『ニーゼ』と重なりますけど特筆するほどカップリング性はない作品だと思っていました。

が、しかし。いざ観てみるとびっくりな共通点が、それも2つも。ひとつは「マンダラ(曼荼羅)」。まず『太陽の塔』のほうでは、太陽の塔はマンダラであるという見方が出てきます。そして『ニーゼ』では患者の描いた絵を見て「これはマンダラよ」みたいなことを言うシーンが出てきます。わたし生きてる中で「マンダラ」と接点全くなかったのに、この2時間くらいでいきなり2回出くわしたわけです。

もうひとつは、まず『太陽の塔』のほうでは、思想家ジョルジュ・バタイユの言葉として「美なんてクソだ。クソを美しいと言えなかったらお前たちの感覚なんていつまでも既成のものにとらわれているんだ」ってのが紹介されます。で、『ニーゼ』に移りますとね、やや汚い話になりますが、自らの垂れ流した汚物で壁に絵を描いている患者がいまして、それを「綺麗ね」なんて言うんですよ。えっ、これさっきのジョルジュ・バタイユじゃん。既成概念にとらわれない真の「美」じゃん。

まあ前述の通りこんなカップリングでこの2作を観ることはまずないでしょうから、これはあくまでわたしのねえちょっと聞いてよ!な日記に過ぎないのですが、いやあでもやっぱり映画ってこういう導き合わせのような繋がりがおもしろいなあ好きだなあと改めて思ったりしたのでした。

(2021年154本目︎/劇場鑑賞)

太陽の塔に畏怖の念を抱ける人ならもうオープニングの映像で脳内麻薬ドバドバだと思うのでぜひご覧くださいませ。