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宮城・岩手、東日本大震災をめぐる旅【②石巻市震災遺構 門脇小学校/東松島市震災復興伝承館】

退職旅シリーズ第二弾「宮城・岩手、東日本大震災をめぐる旅」。退職のち就職で、なかなか余裕が生まれない今日この頃、一ヶ月ぶりの更新となることをお許しください。

前回は宮城編の前編として、仙台空港の防潮堤」「震災遺構 旧女川交番」について書きました。

今回は同日の午後、女川から仙台駅方面へ戻りつつ立ち寄った二箇所石巻市震災遺構 門脇小学校」東松島市震災復興伝承館」について書いていこうと思います。生々しい写真を載せることもありますのでご注意ください。

石巻市震災遺構 門脇小学校

2月8日(水)13時過ぎ、女川駅をあとにして石巻駅へ戻る。石巻というと「がんばろう!石巻」といった復興の(漠然とした)イメージが強く、活気があるものと思っていた。が、実際降り立った印象としては、少なくとも駅前はどこか寂しかった。こういうニュアンスレベルの部分は、来てみないと分からない。

駅前の商店街エリア。
被災当時の建物がそのまま残っているから、というのもあるだろうか。

目的地の「震災遺構 門脇(かどのわき)小学校」までは、歩くと結構距離がある。しかし町を見ながら向かいたかったので、往路は歩くことにする。復興住宅や避難場所の表示が、この地域のリアルを感じさせる。

川沿いに建つ、未来的な建物。
石ノ森萬画館。建物としての被害は大きかったようだが、原画などの貴重な資料は上の階にあったため致命的な被害を免れたそう。

電信柱。3メートルの浸水位置に印。高台への避難を促す標識。

大きなマンション型の復興住宅。

高層マンションなどの屋上付近には、避難できるよ、というマークが付いている。

墓地の向こうに門脇小学校が見えてきた。石巻市で震災遺構として残された小学校は二つある。一つは門脇小学校、もう一つは大川小学校である。大川小学校はその災害対応の不適切さで多数の死者を出してしまったとされている。一方、この門脇小学校は津波火災があったにもかかわらず、在校生の死者は出していない。対照的な二箇所と言える。

焦げた校舎の手前に、大量の墓石。
元から墓地に挟まれた学校だったとのことだが、今となっては異質さを強めている。

入るとすぐに職員さんが迎え入れてくれ、入場料の支払いもSuicaで出来た。火災で損傷の激しい校舎を前面に出しつつ、増築・改修されたミュージアムスペースで充実の展示をしている。個人的には、5年前に行ったNYの9.11メモリアルミュージアムを連想した。どこか一つ「学校」の震災遺構に行くなら、死傷者の少なさという意味でもここはおすすめかもしれない。

入場口すぐのエリア。激しくひしゃげた消防車などが展示されている。

火災被害のあった校舎の内部は、金網から覗けるかたちで展示されている。

椅子や机は鉄の骨組みしか残っていない。黒板が床にぺらりと落ちていたりする。
焼け焦げた教室の内部。授業で使っていたのであろう向かい合わせの椅子が置いてあるなど、当時の状況が見える。

奥まで見通せる廊下。焼け焦げ、あちらこちら ただれている。

校舎のすぐ裏に山がある。ジャンプするには少し遠すぎるこの山へ、とっさの判断で教壇を渡して避難を実現させた。大川小学校とは対照的な部分である。

順路の最後にある仮設住宅の体験コーナーも印象的だった。ニュースやドキュメンタリーなどで常日頃目にする仮設住宅。しかし、実際に足を踏み入れたことはない。ここでは、2タイプの仮設住宅にそれぞれ入ることができる。

突如あらわれる、撮影セットのような仮設住宅体験コーナー。靴を脱いで中に入ることができる。

門脇小学校、焼け焦げた校舎を正面から。「すこやかに育て心と体」と標語が掲げられている。中央の時計は枠しかない。
写真で見るよりも、やはり実物はインパクトがあった。旧女川交番などと同じく、整備された住宅地にいきなりあらわれる異質さが大きい。

帰りはタクシーで駅まで戻った。運転手さんに少しお話を伺うことができた。駅前の商店街はもともとアーケードだったのだけど数年前に取り壊されてしまったと聞き、アーケード好きとしては寂しさがすごくリアルに想像できた。と同時に、当時の賑わいは全く想像できなかった。

東松島市 震災復興伝承館

15時過ぎ。石巻駅から少し揺られ、同じく仙石線の野蒜(のびる)駅へ。ここは被災した旧駅舎自体が震災遺構になっているのだが、わたしは少し勘違いをしており、「新・野蒜駅」から「旧・野蒜駅」はさほど離れていないと思っていた。

こういうところで「わかってなさ」が露呈してしまう。津波被害で移設したということは、x軸もy軸もそれなりに離れている必要があるのだ。というわけで、現在使われている野蒜駅から「東松島市 震災復興伝承館」へは「徒歩で行けるが、同じ駅としてイメージするそれよりは結構距離がある」。

このあと本文で説明する、節電意識の高い地下通路。

まずは、新駅舎のすぐそばにある地下道入り口から下へ降りていく。こちら、かなり節電意識の高い人感センサーが仕込まれており、降りようとすると階段の先が真っ暗だったりするのだが、恐れず進入してOK。バチンバチンバチンと行く先を照らしてくれる。

人感センサーでまだ暗い通路の先に、青空が見える。光沢のある通路の壁面にも、青みのある光が反射している。
なんだこの未来感。

地下道を出た先は、まだ高台である。下の方、だいぶ先に伝承館が見えるので、そこをめがけて階段を下り、歩いていく。逆に言うと、これだけ「上の方、だいぶ先」に新駅を移設しなければいけない状態だったのだと考えることができる。これもまた、地図だけではピンとこない部分だ。

高台から望む、旧・野蒜駅のエリア。
いちばん海側、斜めの屋根を持つ白い建物が伝承館。

駅舎を改修した伝承館と、そのままの姿で展示されている旧・野蒜駅ホーム。

旧駅舎を改修した展示施設のすぐ手前には、旧野蒜駅ホームと線路がそのままの姿で保存されている。土砂や瓦礫は撤去されているため、ぱっと見では思いのほか軽傷にも見えるのだが、かつての姿や被災直後の姿を調べてみると、「ああ……」と思わされる。

曲がった線路と、何かがのしかかっていたであろう屋根。

生活の中心である「駅」。自分の最寄り駅がこんなふうに展示されていたら、どんな気持ちになるのだろう。

間もなく日没。新駅舎まで再び歩いて戻る。突如あらわれる地下通路への入り口が、SFのように見える。ドラマ『ウエストワールド』でこんなシーンがあったっけ。ちなみにこの地下通路、もとは土砂を高台に上げるためのコンベアが通っていたのだそう。

行きにも通った未来的な通路。夕刻になってきたからか、真っ暗ではなくオレンジの光で照らされている。コンクリートで整備された通路の入り口の周りは、ぼうぼうの枯れ草。
ここから新駅へと戻る。

旧駅の外装が白ベースだったのに対し、新駅は茶色系のツートンカラーで塗装されており、だいぶ雰囲気が違う。
旧駅のデザインを踏襲した新駅。

このエリアは高台移転のまちづくりとしては最大規模らしい。後日NHK野蒜駅からの中継を見て、もっと「新しいまち」のほうを見ておけばよかったなと思った。野次馬精神なのだろうか、つい傷跡のほうばかりを見てしまい、「復興」から目を背けてしまう。それは翌日、陸前高田でも思ったことだった。

仙台駅で友人と会う

18時手前、予定通りに仙台駅へ帰ってきた。整備された公共交通機関への敬意を、いつも以上に覚える。

新・野蒜駅のホーム。柱も茶色に塗装されている。
これはまだ野蒜駅

いったん駅前のホテルにチェックインしてから、すぐ駅へ戻って友人と待ち合わせ。数年前に志を抱いて仙台へ移住した、元・楽団仲間。まちづくりの事業に関わっている人なので詳しいかと思い、今回この旅を計画するにあたり「行ったほうがいいところ」を尋ねた。しかしすぐに後悔した。彼女はかつて女川に住んでいたという。自分はまだ見る勇気がなくて行けていないが、代わりに見てきてほしいと言われた。軽はずみなことを、してしまった。

とはいえ、となれば、ミッションを遂行するのみである。そのような経緯で宮城のルートは決まった。コロナ禍を挟んで久しぶりに実物の彼女と再会し、写真は見せずにいろんな話をした。溜めに溜めた近状報告もした。食後ちょっとそのへんのカフェに入るつもりが、仙台の夜は早く、車で郊外のロイヤルホストまで連れていってもらってまたいろいろ話をした。とても楽しかった。

青いLEDで縁取られたアーチが素敵。
仙台駅近くの「ハピナ名掛丁商店街」。アーケード萌えなのでつい撮ってしまう。

巻風エールというクラフトビール。
石巻のビールを飲んだ。調べてみたら、なんと映画館跡地を改修して醸造所にしたのだそう。


次回は岩手編。気仙沼、そして陸前高田へと行く予定です。よく寝るべし。