映画「Coda あいのうた(2021)」感想|ゲスからエモーショナルまで、幅広い“手話”の魅力に触れる。
映画『Coda コーダ あいのうた』を観てきました。なんか『シング・ストリート 未来へのうた(2016)』とか『はじまりのうた(2013)』みたいな、配給ギャガみたいなタイトルだなとか思っていたらGAGA★って出てはいギャガ〜!ってなっちゃいましたというのはどうでもいいんですけど(しかも『はじまりのうた』はギャガじゃなかった)(シングストリートのフェルディア・ウォルシュ=ピーロくんは出てた)。
本作は2014年公開のフランス映画『エール!』をリメイクしたもので、「Coda/コーダ」とは「聴覚障害の親をもつ健聴児=Children of Deaf Adults=CODA」のことだそう。家庭内でただひとり音声言語を使えるヒロインは、生まれながらの「通訳者」として両親と兄に不可欠な存在となっています。しかし彼女には、家族と共有できない「歌」の才能がありました。未来への架け橋も渡されているのですが、足を踏み出すためには家族から離れなければなりません。家族の暮らしと自分の人生を天秤にかけることになってしまう……。そんなお話です。
ただ、別に重い話じゃありません。むしろ「手話の下ネタ大博覧会」状態で、劇場でもあちこちから笑いが起きていました。わたしが真っ先に連想したのはドラマ『シェイムレス 俺たちに恥はない』のギャラガー家。これめちゃめちゃゲスな家族の物語なので、つまり相当なもんです。家族のために人生投げうちまくってる長女フィオナを本作のヒロイン・ルビーにも重ねてしまいます。ていうか父親フランクだしな。そこだな。
なおオリジナルの『エール!』と大きく違うのは、聴覚障害者の家族を『エール!』では健聴者の俳優が演じていたのに対し、本作では実際に聴覚障害者の俳優が演じていること(だそうです、未見)。このあたりの是非は正直なんとも言えないなと個人的には感じていますが、これだけ手話での会話劇がメインとなる映画であれば手話ネイティブの俳優が演じたほうがいいのだろうなとは思います。
さて、わたしが本作に興味を持ったのは、たった今書いたとおり手話が大きな要素となる映画だったからです。
手話が映画向きの表現方法だと思うようになったのは、一年半ほど前に大林宣彦監督作品『風の歌が聴きたい(1988)』を観てからのこと。聴覚障害者の夫婦を主人公にした作品で、3時間近い長尺のなか多くの会話が手話でなされるのですが、これが本当に惹きつけられるし心に入ってくる。手話は「表情」も文法のうちだと言います。目と目を合わせて、全身全霊で思いを伝える。観客もそれを受け取ろうと集中する。映画館という一対一になれる環境で、この表現が響いてこないはずがありません。
その後、手話がキーとなる映画とは結構いろいろ出会いました。ホラー×静寂×手話の『クワイエット・プレイス』シリーズだったり、直近でもイーストウッドの『クライ・マッチョ(2021)』で印象的な使われ方がされていたりします。そして何より『ドライブ・マイ・カー(2021)』。手話と映画の相性をいよいよ確信した作品で、今でも(って100日程度しか経ってませんが)あの感動は忘れられません。
あと、すっかり忘れていたのですが『シェイブ・オブ・ウォーター(2017)』もヒロインが手話を使うのでした。この映画にはかなり思い入れがあって、わたしが映画を趣味にしようと思うきっかけとなった作品のひとつなのですけど(5年前くらいまではそんなに映画を観ない人でした)、こんなところにも手話がいたかと驚いています。
本作、ストーリー展開は比較的になだらか。加えてなんせ基本がシェイムレスなので、わたしの緩い涙腺にもさほど刺激を与えないまま進んでゆくのですが、後半から終盤にかけて段階を踏まれる「歌の届け方」には一段また一段とやられてしまいました。
まずヒロイン・ルビーの初ステージ、ここで家族は周囲の反応からルビーの歌が持つ魅力を感じ取っていきます。父フランクは日頃からビートで音楽を楽しむ習慣があったぶん、おそらくそんなに抵抗なく場の空気(手拍子で盛り上がる様など)を楽しめていたはず。一方の母ジャッキーは、ひとりだけ頑なに手話の拍手を貫いていたことからもフランクよりは強く抵抗があるのだろうと思われます。ルビーもここでは視線を投げるのみです。
その夜、ルビーはフランクと文字通り向き合って、直接「歌」を伝える機会を得ます。ここでもルビーは手話を使いませんが、フランクは「ビートで音楽を楽しむ習慣」のあった彼らしい方法で歌を感じ取ろうとします。やられた、ここはやられました。うわ、涙出た、って思ったもの。勝手に出た、涙が。
さらに、実質のラストシーン。ここがまた素晴らしくて。ステージから、はっと2階席の家族に気付くルビー。自然に両手が動き出し、試験会場は貸切のコンサート会場と化す。今度は母ジャッキーにもしっかりと届く。……まあ多分これ、人によっては「あんな試験ねえよ!」って冷めちゃう可能性もあるシーンですが、わたしは幸い単純に感動。本当に家族を愛していて、天秤もどちらかというと家族側に傾いていたルビーの、あの瞬間みつけた最適解みたいな、そこで初めて自然に出てくる感じがすごくよかった。2階席に気付けるほど緊張をほぐしてくれたV先生の存在も大きい。
この場面は映画としての構成も良くて、ピアノと歌にオケが被さってくるというあるある演出(でも嬉しい)のタイミングで映像の時制が「後日譚」のほうに進んでいくんですよね。そんでもって最後に行き着くV先生ですよ。もうたまんない。そう、ここでやっと書くタイミングが来ました、エウヘニオ・デルベスさん演じるV先生。わたし本作とにかくこのV先生にメロメロになっちゃって。ゴリゴリのイケオジを堪能したい方は絶対本作見逃さないでください。すっごく大切な人物なのに公式サイトのキャストに載ってないのどういうこと! 代わりにここに貼っとくぜ、ちくしょうめ!
そして最後の最後、ちょっと『ラストナイト・イン・ソーホー(2021)』の冒頭を連想しちゃって不穏になった最後(ルビーは囚われてないから大丈夫)、車の窓から身を乗り出したルビーが「I Love You」のハンドサインをする。大林宣彦信奉者としてはここで完全敗北でした。
前述の『風の歌が聴きたい』以降なのかな、大林監督はチャーチルのV(ヴィクトリー)サインではなく「I Love You」のハンドサインを使うようになりました。大林組の記念写真などを見ると、スタッフ出演者みんなこのハンドサインを使っています。『風の歌が聴きたい』劇中でも、主人公は健聴者の同級生にまずこのサインから教えます。当然ファンにとっても思い入れの強いサイン。直接関係のない映画とはいえ、こんないい場面で使われてしまったら涙腺決壊です。
なお、そんなことを言っておきながら知らなかったのですが、あのラストシーンでルビーが使っているサインは厳密にいうと「I Love You」ではなく「I Really Love You」なのだそう。「I Love You」だと折り曲げている中指を、伸ばして人差し指と交差させているのが違いです。ざっと調べて町山さんの解説しか出てこなかったのはどういうことなの公式さん、とまた苦言。
町山さんがこう言ってるってことは「I Love You」と「I Realy Love You」の2種類が劇中に登場するのだと思うのですけど、他に気を取られていたのかわたし普通の「I Love You」のほうは鑑賞時に気付けなくて。ただ公式サイトを一番下までスクロールしたら、試験のシーンで「I Love You」してるスチルがありました(今度はありがとう公式さん)。なるほど、結構直前までRealyじゃないんですね。そのへん踏まえて観直してみたい。
掘り起こせばもっと感想ありますが、終わりが見えなくなってきたのでこれにて打ち止め。単純に、いい映画でした。あ、あとうっかり書きそびれていたけどルビー役のエミリア・ジョーンズさん素晴らしい。眼力強めの英国女優界がますます増強されていくよろこび。
(2022年18本目/劇場鑑賞)