大林宣彦監督作品「北京的西瓜(1989)」雑感
漢字が多い(笑) 1989年の大林作品『北京的西瓜』をレンタルDVDで鑑賞しました。監督曰く、読み方は『ぺきんてきすいか』『ぺきんのすいか』どちらでもいいんですよ、二つの読み方があるんですよ、とのこと。
あらすじ
舞台は1980年代、千葉の船橋。八百屋「八百春」の主人は、近所の寮に暮らす中国人留学生たちを親身に世話してやったことで、彼らから「日本のお父さん」と慕われる。親身になりすぎて自分の生活が傾いてしまうこともあったが、そんな家庭の危機も今度は留学生たちの助けでどうにか乗り越えた。数年後、留学を終えて出世した彼らは、中国で催す同窓会に「日本のお父さんお母さん」を招待する。
雑感
いい映画っぽくないですか? そうです、いい映画です。どうしちゃったんだろうと思って。これ本当に大林作品かなと。『廃市(1983)』を抜く勢いで普通の映画じゃないか、と。『廃市』だって若かりし小林聡美さんの可愛さとかそういう「大林作品的要素」は一応あるわけですけど、本作は全然それすらないんですよね。なんたって「主演:ベンガル/もたいまさこ」ですからね*1。
しかしですね、やっぱり大林映画はただでは終わらせないのです。絶対に「何かある」のです。
本作の舞台は主に八百屋の店先か奥の居住スペース。監督曰く「定点観測の映画」とのことで、カメラの画角に収まった人々がそれぞれ好きなように喋りまくっていてそれがただ映っているだけ、というような、大林作品共通の「作り物っぽさ」をあまり感じないドキュメンタリックな印象の映画として2時間近く貫かれます。
だから今回はこのままいくのかな、と思っちゃうんですけど、そんなことはなかった。というか、そのままいきたかったのかもしれないけど、そうできなかったのです。
この映画は、日本の野菜が高くて買えないと嘆く中国人留学生に10円でチンゲン菜を売ってあげるところから始まる日中友好の物語(しかも実話ベース)で、実際に中国人留学生や中国人俳優が大勢出演。「日本のお父さんお母さん」としてすっかり慕われた八百屋の夫婦が中国で彼らと感動の再会、という素敵なエピソードも終盤には待っています。しかし! 1989年7月に中国で予定していたそのシーンの撮影は叶わなかった。なぜか。同年6月に天安門事件があったから。
2時間近く普通〜〜に進行してきた映画は、中国行きフライトの機内で突然のホワイトアウトを見せます。えっ? 何? 死んだ??
じつに37秒間の無音時間*2を経たのち、何事もなかったように八百屋夫婦は中国のホテルにいるのですが、いや、わずかに不自然。ドキュメンタリックだったこれまでと違って妙に画面が整っている。むむむ? と思っていると、ベンガルさん演じるご主人がふとカメラに向き直ってこう言うのです。「皆さんお気づきかもしれませんが、ここは中国のホテルなんかじゃありません。日本の撮影所です」。えええええ。
つまりですね、天安門事件の影響で中国撮影が断念となり、ここまでドキュメント調に撮ってきた映画のフィナーレが成り立たなくなってしまったと。それで、最後の部分だけ思い切ってメタフィクション的演出を施したと。そういうことなわけですね。
これはもうなんか、鳥肌の立つような衝撃がありまして。大林作品でいうと、最後だけいきなり『理由(2004)』になる感じなのですよ。前年公開の『異人たちとの夏(1988)』の終盤にもやはり『理由』っぽさがあったことを考えると、この頃からこういう断片的アイデアがあったんだなとも思えて舌を巻きます。
他の方の感想を読んでいたら「天安門事件に作品も破壊された感がある」と書かれている方がいて、ああ確かにその通りだなあと思いました。この調子でそのまま天安門事件がなくクランクアップを迎えられていたら、大林作品としては極めてレアな上質のドキュメント的作品に仕上がっていたはずですもんね。ただ個人的には、破壊されちゃった本作のほうがきっと好き。大林映画はこうでなくっちゃ、と。
大海啊故郷
本作では『蘇州夜曲』や日本の唱歌が多く登場しますが、なかでも記憶に残るのが繰り返し繰り返し歌われる中国の歌『大海啊故郷』。曲名は「海はふるさと」というような意味だとか。当然最初は耳馴染みがないのですけど、 エンドロールの頃にはすっかり口ずさめるように。いい曲ですねえ。
劇中でこの曲を歌うとき、留学生たちがとても独特な抑揚をつけるのが印象的でした。二胡のフレージングって中国の人の歌い方そのものなのかな、なんて思ったりもしました。いつだったかちょっとだけ借りて練習したことあるんですよね、二胡。
(2020年108本目/TSUTAYA DISCAS)
さて、とりあえず天安門事件のおさらい、ちゃんとしないと……。