353log

主に映画の感想文を書いています

ダンサー・イン・ザ・ダーク(2000)

本作、じつに18年越しの初鑑賞と言っても過言ではないかもしれません。2000年、当時中学生。ビョーク好きの友人がいました。フュージョンバンドのカシオペアが大好きだったわたしは、同じく「その歳にしちゃマイノリティーな趣味を持ってる同士」の彼と、日々マイノリティー対決をしていました。彼が黒板に「Björk」と書けば負けじと大きな「Casiopea」を書いたものです。何やってんだ中学生。

とまあそういうわけで彼の口からよく耳にはしていた「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というタイトル。サントラ…は借りたんだったかなあ、今回これといって聞き覚えのある曲はなかったから借りてなかったかな。「ホモジェニック」は間違いなく借りた記憶があるけれど。ただ、印象はさほどないです。のちにYUKI椎名林檎などある種近い世界観のある女性歌手に傾倒していくわたしですが当時はさして趣味じゃなかったのでしょうね。

そもそも映画を観るという習慣がほぼほぼなかったので、当時は観ることのなかった本作。時を経てそこそこ映画を観るようになってからも、なかなかTSUTAYAでレジに持っていくまでは至らない作品でした。そんな状態が長く続きすぎてもはや殿堂入りした感すらあります。ありますよね、気にはなってるんだけどいつまでも距離を保っているあれこれ。

映画事情に明るくなってくると今度はやれ「後味の悪い映画」だの「鬱映画」だのといった情報も入ってきちゃってより手に取りづらい。ですが、打破しようぜ!今こそよお!という気持ちが舞い降りてきたのでふんぬっとTSUTAYAの棚から引っこ抜いてやりましたよ。18年越しで、鑑賞いたしました!

あらすじ

なんとなく「予備知識なにも入れずに観よう」と思ってまっさらな状態で観たのですが、正解だった気がします。唯一の、かつ最大の予備知識である「暗い映画」というのは全くその通りでした。覚悟してた以上に、きつかったです。ただ、観終わってから思うこととしては、せっかく本作を観るのであれば、なるべくまっさらな心にズドンと突き刺さってほしい。なので、よかったらネタバレなしにまず観てきてください。帰らぬ人になるかもしれませんけど。

以下一応、結末には触れてないあらすじです。

主人公セルマは貧乏な移民ではあったが周囲の人間関係にも恵まれ、シングルマザーとして一人息子を育てながら仕事も趣味もある充実した人生を送っていた。しかし同時に彼女は先天性の病気により視力を失いつつもあった。それは遺伝性のもので、いずれは愛する息子も視力を失ってしまう。早期の手術が必要だった。

視野が狭まり難儀であろうともセルマが日々働く理由はひとつ。息子の手術代を貯めるため。そして貯金はもう間もなく目標額に達しようとしていた。そんなセルマに次々と不幸が襲いかかる。

まさかのミュージカル映画だった

本作最初の驚きは、のっけから「サウンド・オブ・ミュージック」を練習しているところ。そしていちばんの驚きは、工場の機械音がビートを刻み、工員たちが踊り出したところでした。えっ、そういう映画なの!

目が悪いこともあってでしょうか、主人公セルマにとって生活音はリズミカル、メロディカルなものとして常に聞こえています。ぼうっとしてしまったとき、逃げたいような辛いことがあったとき、セルマの耳はすぐさま日常のビートを見つけ出し、そこに乗って妄想の世界へと入り込みます。

工場のビート、鉄道のビート、レコードの針が終着点で弾む音、なんてことない日常の音がセルマの脳内でサンプリングされるとき、そのループはじつに小気味のよいものです。暗く不安定なテイストで描かれる「現実」パートと対照的なこれらの「妄想ミュージカル」パートは、観客にとってもしばしの休戦、「現実逃避」を味わえる時間になります。


妄想をミュージカル的に描く映画は数多くあります。最近だと「ラ・ラ・ランド(2016)」がまさに、ミュージカルと見せかけたビターな作品でした。しかしそれらの多くは、第四の壁を挟んで客観的に見ることのできる「劇中の妄想シーン」だと思うのです。本作のすごいところは第四の壁を突き抜けざるを得ないドキュメンタリーチックな現実パート、そしてその流れで一緒に引きずり込まれる妄想ミュージカルパートです。

だからなのか分かりませんが、これらの妄想ミュージカルパートはどれもこれも「めちゃくちゃ、いい!」んですよ。本作、結末から言えば確実に「二度と観たくない」タイプの映画なんですけど、それでも「もう一度観たい」と思えてしまう要素がやはり確実にあって、それはこのミュージカルパートなのですよ。つらい現実を知ってしまっているから「きれいな夢が見たい」んですよ。

ものすごく不思議な感覚にさせられてしまいました。かつてのミュージカル映画が戦時中の庶民に対して同様の役割を果たしていたように、真のミュージカル精神を持った映画とも言えるかもしれません。

ミュージカルの脱線話

ミュージカルのネタが出てくるとついつい反応したり調べたりしてしまいます。この楽しみ方は中学生の頃じゃ絶対にできなかったので、もったいぶっておいてよかった。

トレーラーの中でセルマとビル(このクソ男!!)がいいムードのおしゃべりをしているシーン、セルマが「回転するウエディングケーキのてっぺんに立ちたい」みたいなことを言いますが、だめだ!脊髄反射してしまう!その声は我が友「巨星ジーグフェルド(1936)」のことでよろしいか?!

今なら「てっぺんはヴァージニア・ブルースですね」とかソラで言えちゃうよ!(過激派)

それから、セルマとキャシーが映画館で観ているのはどうやら2回とも「四十二番街(1933)」らしいですね。よく見る「バークレー・ショット(ダンサーたちを万華鏡みたいに真上から撮る手法)」を手掛かりに探したらすぐ出てきましたが、まだ観たことがなかったのですぐさまTSUTAYAディスカスのリストに入れました。

あと、そう、キャシーがカトリーヌ・ドヌーヴだったのは観終わってから知りました(カトリーヌ・ドヌーヴといえば「シェルブールの雨傘(1964)」ですね。雪のエッソですね)。あんないい年の重ね方をしているとは! 彼女が演じる厳しくも親身なキャシーは本作の貴重な精神安定剤になってくれていました。彼女がいなかったらいくら妄想があっても耐えられない。

オルドリッチ・ノヴィというタップダンサーは実在するのかと思ったら架空のキャラでした。そこは実在してくれていてもいいのに。フレッド・アステアでもいいのに。だめか。なお本作でも1回「アステア」のワードが登場。台詞に「アステア」が出てくる映画をカウントしたら一体どれくらいになるのでしょうかね。かなりの数になると思います。

おお、大事なことを書き忘れた。ある時以降、耳馴染みがあるはずの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」というタイトルに引っ掛かりを覚えるようになりました。それはフレッド・アステア主演の名作ミュージカル「バンドワゴン(1953)」に出てくる「ダンシング・イン・ザ・ダーク」という楽曲を知ってから。実際のところは分かりませんが、このきわめて似たタイトルから本作に対して多かれ少なかれミュージカルの香りを察知していたのは確かです。ここまでミュージカルだとは思ってませんでしたけど。

脱線おわり。

処刑場への107歩

生死観について考えさせられる映画は不思議な魅力を感じます。先日観た「アウトレイジ 最終章(2017)」も、そういう意味ですごく印象的な映画でした。「お前、死ぬぞ」「いいですよ?」という会話。喉元から脳天に向けて自ら撃ち抜く瞬間。恐れと同時に、「死」に対する好奇心は誰しも持っているんじゃないでしょうか。

そんなところでこの「107歩」です。決して救いがなかったわけじゃない、むしろ差し伸べられていたのにはねのけた。「エゴだよそれは!」と言いたくなるほどヒロイズムな精神で自殺同然な処刑を選んだセルマ。そうとなれば覚悟を決めているのかと思ったら抵抗しまくる恐がりまくる。いや、そりゃそうだ、冤罪だから当然の報いじゃないし。なんだかんだいっても死んじゃうわけだし。引き返せるもんじゃないし。見えないから恐さ倍増だし。

この、監獄に入れられてから絞首台の床が開くまでが(誰にとってもそうだと思いますが)個人的にはものすごい映画体験だったなと思います。あまりにもつらすぎて恐すぎて、どんでん返しがあってくれと願う気持ちと、いやこのテイストでどんでん返しはあり得ないよ、っていうかまず本人が好まないだろうとかいう完全に第四の壁を超えた気持ちと度を越した感情移入と、数分ないし数秒後にこのセルマは絶命してしまうという信じたくないほぼ確定事項。そして執行に心の準備は間に合わず、上の階で歌っていた彼女は床一枚挟んだ下の階でもはや口をきかない…。磔にされたままぶら下がり揺れるその姿はすぐカーテンで隠されるけれど、目には完全に焼き付きました。

すごい。ほんとにすごい。これ多分わたし、好きなんですよ、このシーン。二度と観たくないくらいに思ってる反面、何度でも観たいと思ってるようなところもあるんですよ。少なくともただ単純に「後味が悪い」とは思わなかったし、悪趣味とも思わなかった。多分、なにかすごく合致してしまう部分があったのでしょうね。とはいえ、ううむ。「すげえ嫌い!」ってなるのも望むところではないけれど、あんまりピタッときてしまうのも望むところではないなあという複雑な感情(笑)

ちょっとミュージカルの話に戻りまして、監獄でセルマが換気口に耳をすませながら「私のお気に入り」を歌うシーン。これ、ものすごく印象に残ってます。「私のお気に入り」って「サウンド・オブ・ミュージック」のなかでは「雷の怖さを紛らわすために子供たちと歌う」お歌なんですけど。つまりこのときセルマが何故この曲を歌ってるかって、恐いからなんですよね。まさに恐さを紛らわすために歌ってるわけですよ。それがもう…ほんとにね…迫るものがありまして。二次使用だけれど、ミュージカル史に残る名シーンだと思います。

もうひとつ印象に残ってるのは「もう見るべきものは何もない」というセルマの台詞。これは生死観もあるけれど、目が見えなくなるということをリアルに描いているように感じられる言葉で、すごくいろんなことを考えました。徐々に失明していく人は最後に何を見ようとするのでしょうか。セルマは最後に何を見たのでしょうか。


18年も寝かせた「未見だけど思い入れの強い作品」、これにて無事成仏です。それもちゃんと完全燃焼してくれました。よかった。これで中途半端な作品だったらどうしようかと思っていた。ほんとはビョークの音楽とか、その他諸々もろもろ書きたいこと山ほどあったのですが例によって疲れたのでおしまいです。最後の曲は聴かないほうがいいってセルマも言うし!曲解!

あ、ひとつだけ。偶然か運命か。今年の鑑賞本数、本作にて「107」本でした。

(2018年107本目)